2007年9月24日月曜日
春秋・戦国時代 児島宮刊行会
斉(桓公)、晋(文公)、宋(襄公)、秦(穆公)、楚(荘王)、呉(闔閭、夫差)、越(勾践)など春秋時代(前770~前403年)晋が韓、魏、趙の3国に分割されてから戦国時代・戦国7雄:斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙←有力な7つの諸侯・東周の王を無視し、諸侯はそれぞれ王と称す周の衰退犬戎(チベット系?)の鎬京侵入により、都を洛邑に移す→東周(前770-前256)成立・諸侯が自立の傾向を強める「白馬非馬論」(白馬は馬にあらず)名は事物の名称、名と実は不一致があるべきでない、概念と実体の関係公孫竜名言【雲南には滇(てん)王国】 雲南には滇(てん)王国がありその王墓・石寨山遺跡での出土品より推測し得る[文献05]・[文献12] ・[文献17]。 然るに先のタイ東北部の文化もベトナム北部の文化も雲南や嶺南の文化と共通する所が多いと言うベトナム北部での鉄器は、狭義のドンソン文化期にあたる紀元前4世紀頃[文献02]・紀元前3世紀[文献01]に見出せるこの地域は中国の雲南や嶺南の文化の影響を強く受けておりそれはこの時期、雲南には滇(てん)王国があるインド・ガンジス河流域の鉄器はこの文化が伝播したのだろう黄河流域の北では中国の支配階層となる遊牧・雑穀文化圏が大きく分けて二つのグループ[紅山の黄帝と羌族の炎帝]がある【雲南には滇(てん)王国楚】神に逆らって罰を受けることを麻賀禮と日本では表現していた読みは「マガレ」です紀元前3世紀に楚の将軍・荘諸ウが現在の晋城辺りに築城し(諸ウ国》を建国した紀元前109年に前漢の武帝は諸ウ国王に「諸ウ王之印」を与えて正式な国家として認めた春秋時代の強国で、戦国七雄の1つでもある楚(? - 紀元前223年)は、楚(春秋時代)国地名としての楚は、現在の湖南省・湖北省を指す楚は長江文明の流れを汲むと思われ、周を中心とした中原諸国からは蛮族として蔑まれたが、独自の高い文明を持っており、周の建国から少し経った頃に周の史書に現れ始め、熊繹が成王から子爵に封じられたと言われる周の昭王に討伐を受けるが、これを撃退し、昭王を戦死させたと言われる十七代目の熊通の時代に随を討ち、随をつてに周に爵位を上げて貰う事を要求したが、周に断られたために再び王を名乗るようになった。熊通が楚の初代王武王となる十代目の懐王の時代、圧倒的な強国となってきた秦に対しどう当たるかで親秦派と親斉派に家臣は二分した。親斉派の筆頭は屈原であり、懐王に対し秦は信用ならないことを強く説いたが、親秦派の後ろにいた秦の宰相張儀の策略により屈原は失脚し、地方に左遷された。諌めるものがいなくなった懐王は張儀の策略にいいように踊らされ、最後は秦に幽閉されて死去した秦の王翦将軍に項燕が破れ、紀元前223年に滅びた楚の懐王の孫を楚王としている紀元前1046年に殷を倒した武王が建国した古代王朝西周王朝封建制のもとでは、周一族の本家の家長が周王軍事、祭司の頂点として君臨武王の曾祖父、古公亶父が現在の陝西省中部の岐山のふもと、周原に移住して基盤を築き、武王の父、文王が国力を拡大。武王が弟の周公や軍師、太公望の補佐を得て、殷を倒した後、現在の西安市西部の鎬京を都とした。12代幽王時代の紀元前771年に北の異民族、犬戎に滅ぼされた。翌年、太子だった平王が東方の河南省洛陽市付近にあった成周に逃れ、即位。以降は東周(春秋戦国時代)と呼ばれるが、力を失い、同256年に秦に滅ぼされた古公亶父の孫 季歴周王季歴は(古公亶王の第三子の息子)周王ー荘王【東周】ー恭王ー平王ー昭王ー(魯の恵公)恵王ー簡王ー声王ー悼王ー宣王ー威王ー懐王ー頃襄王ー考烈王ー幽王【西周】西周王朝第十二(十三)代君主中国春秋時代の楚国の王荘王(楚) そうおう穆王の子(湖北省竹山県)を,のちに舒蓼(じょりょう,安徽省舒城県)を滅ぼして領土を拡大前606年(荘王8・定王1),洛河の中流域にいた陸渾(りくこん)の戎を討って,兵を東周の洛邑城外にすすめ,周王の使者に周の九鼎の軽重を問うた。前597年(荘王17・景公3)には晋軍を(河南省鄭州)で破り,中原の覇者となった前598年(荘王16・成公1),陳の逆臣夏徴舒を誅殺して,陳を自国の県にしたが,諫言を聞いて陳の国を回復周の威烈王23年(紀元前403年)に周王の命により諸侯に列せら、強国となり、襄王のときに王を称したが、秦に滅ぼされた,前8世紀頃から強力となり、中原を支配する周王に対し、王号を称し、河南に進出して領土を開き、前7世紀には荘王が五覇の一つとなる太公望が周王を助けて滅ぼした国”殷”王朝、その国号が「商」周は、かっての商の高官をいわば公職追放し、亡国の民は商人に成らざるを得ない状態に追い込まれます。これが、商業、商人の「商」の語源という説です伏犠は約6千年前の帝王、文王は殷~紂代の諸侯であり周王の父にあたります。この伏犠と文王親子によって作成された六十四卦に彖辞(たんじ)、爻辞(こうじ)という辞(ことば)がかけられて易経の本文となっています■易の起源易の起源については諸説がありますが、「伏犠が卦(か)を画し、文王が彖(たん)を作り、周公が爻(こう)を著した」というのが通説になっていますhttp://www.china-news.co.jp/culture/2004/05/cul04060302.htm【秦の穆公】姓は贏、名は任好。諡号は穆公(または繆公)。在位、紀元前659~621。 せいじゅう しん ぼくこう ぼくこう ぼく 中原ではなく、西戎に覇をとなえた春秋五覇の一人、秦の穆公です、「秦本紀」として納められています秦の先祖は帝センギョクの後裔玄孫にあたる大ひ はくえい ていしゅん う ていしゅん りゅう えい たまわ費(伯翳)が、帝舜の時代に禹の治水工事に協力し、帝舜よりソウ游(黒い旗)と贏姓を賜っていま くだ しゅう ぼくおう ぞうほ ぎょしゃちょうじょう えいす周の穆王の時代に造父がその御者を務め、趙城に封じられ、贏姓の同族と別れ、ちょう さんしん ちょう えい ちょう趙姓を称するようになり、これが三晉の趙の祖三晉の趙の祖となります孝王の時代に非子が馬や畜類をおおいに繁殖させた功により、秦の地に封じ、贏氏のさいし しゅう ゆうおう けんじゅう しん じょうこう しゅう けんじゅう とうせん祭祀を継ぎました周の幽王が犬戎に殺されると、秦の襄公が周を守って犬戎と戦い、東遷の際にへいおう きざん たまわも平王を護衛し、岐山以西の地を賜り、諸侯に封じられました。爵位は伯です【三国漢の天子としているが天子ではなく諸侯の身分】匈奴が漢への道を隔絶天子は王然于・柏始昌・呂越人らを使者として、ひそかに西夷の地に出て、さらに西を目指して身毒国をさがさせた滇王嘗羌は彼らを逗留、「漢とわが国とでは、どちらが大きいか」と問い、夜郎候も同じことを問うた。道が通じていないので、滇王も夜郎候も、おのおのみずから一州の君主だと答えた南越が謀反すると、天子は馳義侯を使者として、犍為郡から南夷の兵を徴発させた且蘭(南夷の国。貴州省)の君主は使者(馳義侯)および犍為郡の太守を殺した漢は巴・蜀の罪人で南越を撃とうとする者と八校尉を出兵させ越はすでにやぶれてしまったので、漢の八校尉は南下せず頭蘭(南夷の国名)の誅伐にむかった(呉倭人の国)南夷を平定して、その地を牂牁郡とした夜郎侯は始め南越にたよっていたが南越が滅びると漢の配下につき天子はこれを夜郎王とした天子は王然于に命じて、越をやぶり南夷を誅滅した漢の兵威を誇示した滇王は東北方には労浸・靡莫(ともに小国名)があり、みな同姓でたがいに扶けあっていたので、入朝することを聴きいれなかった益州郡(雲南省)とし、滇王に王の印を賜い、もとどおりにその民の君長とした、西南夷の君長の数は数百であるが、ただ夜郎と滇だけが王の印を受けた滇は小国楚の先祖は周の時代においては文王の師となり、楚に封ぜられた。周が衰えたときには、地は五千里と称された秦は諸侯を滅ぼしたが、楚の苗裔だけは滇王として残った漢は西南夷を誅され、滇だけはまたも漢の天子の寵遇する王となったのである「史記」(下) (司馬遷 著)【「滇王之印」雲南の滇王国】「滇王之印」が王墓も含む古墳群から出土したのに、「漢委奴国王」の金印が志賀島の海に接した狭い土地で、変哲もない石の蓋石の下の隙間から金印だけが墓とさえ考えられないような場所にあったのは,倭国が漢に対しあまりよい処遇には値しなかったのであろうなので「滇王之印」が王墓から出土しているように,倭国にとって楚国が重要であることか判る戦国時代末期から前漢時代初期に全盛時代を迎えた古代雲南の滇王国の王墓群と貴重な数々の出土品が発見された(紀元前109年)、前漢の武帝が滇王に下賜したとされる「滇王の金印」も、この第2次発掘時の6号墓より発見された 石寨山古墓群遺跡 「メコンプラザ」内記事の一部倭人の故郷である雲南にも諸ウ国・昆明国等があり、漢の武帝は諸ウ国に金印〔諸ウ王之印/BC:109〕を与えている紀元前3世紀に楚の将軍・荘諸ウが現在の晋城辺りに築城し諸ウ国を建国した紀元前109年に前漢の武帝は諸ウ国王に「諸ウ王之印」を与えて正式な国家として認めた【三讓而踐天子之位】桀、三讓而踐天子之位。順天革命、改正朔、天下號曰商。以建丑之月為正月、色尚白。大濩作歷作囿。見張網四面、獸令去三存一、仍取自犯者。諸侯嘆德、三十六國來歸。天旱七年、以六事自貿、焚身於桑林之野、天降甘雨、天下太平。湯王在位十三年而崩、傳國世三十一王、計歲六百二十九年。今殷紂王是帝乙之子、治天下、名曰辛、一名受、乃湯之末孫也。紂王傳宣、免姬昌之罪。詣來日、八伯諸侯咸來辭紂王。辭畢、衆諸侯出朝門外、惟有西伯侯告衆諸侯曰、「紂王更待十五年、失其天下也。」道罷、各施其禮。欲待相別、有費仲來辭衆諸侯、有西伯侯道費仲、「爾是獻利便之人、知妲己亂其天下、苦害萬民之力。」道罷、衆諸侯相別、各上路行。衆諸侯皆去也、費仲心中懷恨西伯侯之言。或有一日、妲己共紂王飲宴在摘星樓上、妲己問王曰、「臣啟陛下、世間有何貴寶與子童翫看。」言罷、紂王曰、「何處有貴寶。」言畢、旁邊轉過費仲來、奏曰、「臣啟陛下、臣知一人有寶、堪與娘娘帶翫。」王問曰、「何人有寶。」費仲奏曰、「臣知西伯候姬昌有一對瓊姬玉鉚、此釧無價之寶也。帶之隨人心意、變通四時、欲寒則涼、欲熱則暖。又令人身體輕便、容顏不老。此乃真貴寶也。」妲己聞之、大悅、遂乃奏王曰、「此釧子童須要帶之。陛下如何。」王曰、「此事容易。誰人堪去爲使命入岐州去取寶釧。」費仲奏曰、「小臣願為使命。若陛下令別人為使命、恐受西伯侯金珠好財物迷心、不肯將瓊瑤玉釧來。」妲己曰、「言者當也。」先賜金百兩與費仲、費仲謝恩辭王、秉勅上路、連夜不止。來見天子、詣於殿下、山呼畢、「臣啟陛下、如今走了太子、四人俱來乞罪。」紂王聞奏、「卿等無罪。」四人謝恩出朝。武王伐紂卷上當日太子一夜躲兵獨行、到一廟中、有一神人來請太子上殿而歇、神兵問太子曰、「何故來此。」太子具說父王不仁無道之事、###(神人曰)、「你後破無道之君、吾與汝一法、必勝矣。」先##(賜酒)一杯、與太子飲之、又與大斧一具、可重百斤、名曰破紂之斧。神人便助太子有力也、接大斧入手中。忽然覺來、却是一夢、果然見大斧在手中。太子自覺有力、弄大斧恰如無物相似。至天明、見牌上字、名曰浪子神廟。道罷、又有鰕吼、佶留留兵來。太子拈斧在手、便與二將決戰、都無數合、殺退二人兵士。太子望朝歌、大恨父王并妲己太子往黃河而進、於河岸口、見一漁父。太子曰、「漁公渡予過於此河、感謝勿阻。」漁公曰、「爾是何人也。」太子具說前事。又問曰、「公何人也。」公曰、「吾是紂王之臣、姓高、名遜。」太子複問、「為何在此。」公曰、「因初修臺時、為吾慢功、故罰吾為長流百姓。令避世在於河中、且為釣叟。今太子不是、非常專意留太子管待、太子不肯住、高遜渡太子過河。與太子相別、太子前到潼關、便入華山小聚兵、一心待破無道之君http://www.mekong.ne.jp/directory/wat/shizhaishan.htm
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