2007年9月24日月曜日

倭国と箕氏朝鮮

氏朝鮮は春秋戦国時代に中国によって作られる。前二世紀初頭、箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬に攻め込み、 韓王となった。燕からの亡命者・衛満によって箕氏が滅ぶ。紀元前194年頃。紀元前194年頃、衛氏が台頭。同108年、漢の武帝によって滅ぼされ直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれるこれまでが,倭人伝を記した漢の武帝と南越国王の時期紀元前111年で,以後弥生後期頃夜須耶麻国が出来て夜須周辺一帯に民族の流入があり弥生遺跡が密集しているのもこの為であろう。【新羅本紀 三国史記南解 次次雄】南解次次雄が王位に上がった。(次次雄をあるいは慈充とも言う。金大問が言うには、「([次次雄は) 方言で巫のこと言う巫女が鬼神に仕え尊長の者を称するのに慈充と言った彼は赫居世の長男である母は閼英夫人で、王妃は雲帝夫人(一説には阿婁夫人とも言う)父王を引き継いで即位して、(この年を南解王の)元年君主に即位すれば、年を越してから元年を称するものである。其の法が春秋を例にしているので,日本王の同系となる南解 次次雄(在位 AD4-24)巫女職は女を指した意味【 西羌とは】三苗の子孫、晋書は舜の子孫とするのはトラピタ人といい,遊牧民族を謂う言語は未詳、文字を持たない梵字と幾何模様蛮氏の戎が子と称し、戦国時代には大茘・義渠が王を称した秦の厲公の時に秦から脱走した戎人爰剣が諸羌の祖となったという」これが戎人の元祖匈奴の冒頓単于に服属武帝の時代に討伐が行われ、護羌校尉が置かれたこれによりモンゴルとなす漢は降伏した羌族を内地に移住させた後漢末、混乱に乗じて漢人王国・韓遂・馬超らの反乱に参加

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