2007年9月24日月曜日

唯一神道夷人系の民族 本姓ト部氏

本姓ト部氏。平野社預ト部好真の子兼延を祖とする。兼熈の時、昇殿を許される。唯一神道(吉田神道)宗家。旧家。外様。家紋、抱き柏。神道で朝廷に仕えたト部氏とその後裔の吉田、藤井、萩原、錦織の四家が使用。いずれも夷人系の民族が用いたものである神宮では三重県の伊勢神宮の久志本氏、愛知県の熱海新宮の千秋氏、岡山県吉備津宮の大森氏、福岡県宗像神社の宗像氏などがある。菩提寺、神楽岡神葬墓地。居所、吉田村。 766石 子爵吉田 兼熈[?~1402(応永9).5.3]神祇大副兼豊宿禰男。1386(至徳3).1.6叙従三位。正三位・非参議。吉田 兼名[?~1460(長禄4).10.28]兼富男。1452(享徳元)年12月叙従三位。従二位・非参議。吉田 兼倶(兼敏)[1435(永享7)~1511(永正8).2.19]兼名男。1472(文明4).10.27叙従三位。従二位・非参議。吉田 兼満[1485~1528.11.3]兼致男。兼倶孫。1523(大永3)3.19叙従三位。従三位・神祇権大副・侍従。実子なく、一流断絶。吉田 兼右[1516.4.20~1573.1.10]兼満男(実清原宣賢二男)。1552(天文21)10.9叙従三位。従二位・神祇大副・右兵衛督。吉田 兼和(兼見)[1535~1610.8.20]兼右男。1582(天正10)5.3叙従三位。従二位・神祇大副・左衛門督。吉田 兼連(兼敬)[1653.10.20~1731.12.17]神祇少副兼起男。1688(貞享5)1.28叙従三位。正二位・非参議。吉田 兼雄(良延)[1705.1.14~1787.8.20]左兵衛権佐兼章男。1732(享保17)4.5叙従三位。正二位・神祇権大副。吉田 兼隆(良倶)[1739.12.19~1796.2.23]兼雄男。1766(明和3)1.9叙従三位。正二位・神祇権大副。吉田 良連[1762.12.16~1813.6.12]良倶男。1786(天明6)1.8叙従三位。従二位・神祇権大副。吉田 良長[1792(寛政4).9.10~1840(天保11).11.26]良連男。母本多隠岐守安件女。1821(文政4).1.20叙従三位。従二位・非参議。吉田 良芳(良熈)[1810(文化7).5.11~1868(慶応4).4.2]良長男。母仙石越前守久道女。弘化3年 7月8日請願により吉田良芳より和世田神社の御社号の神宣を賜わる。和世田神社良芳 文化7).5.11~1868(慶応4).4.2]. 良長男。母仙石越前守久道女。(良熈)子 吉田 良義, 半家, 卜部氏天明5年(1785)吉田良延卿より「八幡宮」の親筆をいただき、慶応3年(1867)吉田良義卿より「大瀧神社」と改称した柏崎地域の里神楽        奉納神社明治に採取吉田神社宮司吉田権少教正良義君、神前にて祝詞を俸読せらる、東京府下の相撲、女性の見物自由に 【1872/明治05年11月24日/東京日日】#1 相撲の説 府下の相撲は従来勧進の故を以て、婦女の覧観を許さざりしが、当暮場所、第ニ日目昨二十三日より、婦女の見物を随意とせりと、実に方今自主自由の権を賜うの際、角力に限りて、婦女を禁ずるの理あらざる筈、もっとも至当の事と云わん、しかるに未だ怪むべきは、角力中、オサエとか唱え、年功績まざれば強も弱に勝つあたわざるの則ありとか、これすなわち束縛の弊害にて、かつ看客を欺くに似たり。 人々自立の権ある今日、断然この弊を解かざるべからず、もとより力を弄して、糊口するの業、何ぞ年功を論ぜん。 或は云う、男女の相撲裸体、袒裼(たんせき)、半腕半脛を露わす等は、違式硅■{かい}違の御例に処せらるるを、角力のみ依然として裸体也と、説喋々論紛々たり。 予按ずるに角力の如きは、無用の長物といえども、肥碩の男子数百人偸安(とおあん)に今日を営む、また昇平の余沢と云わんか、聞く自今邏卒を罷めて、町兵を置かると。 もしこの挙実ならば、角力等宜しくここに注意し、町兵に代わりて、巡邏を乞い、賊を制し、非常を防ぐ等に勤労せば、無用を反して有用の端緒に至らん。 これ予が撲癖の婆心也。 第五大区住、肥男子記。[出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 明治ニュース事典 第Ⅰ巻, p.351~p.352]33 両国回向院の大角力、初日から女も見られることに。 【1877/明治10年12月08日/東京曙】#1 明日より両国回向院の大角力は、いよいよ相始りこのたびは初めより女も見られる事に定め、大入りでございましょう。[出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 明治ニュース事典 第Ⅰ巻, p.353]中蒲原郡村松町某の妻、女相撲の興行に加わり力士として放浪、警察に拘引され話題に。 【1887/明治20年10月12日/時事】#1 数百年来の習慣とはいえ、力士が裸体のまま両々相当るは、文明の今日に在りて恥ずべき事柄などという人も多き中に、婦女の身にしてあられもなき、観衆の前をも憚(はばか)らず男力士のごとくに、一条の厚き犢鼻褌(ふんどし)を締め込み、島田髷の娘の打扮(いでたち)にて四つに取り組み、大なる乳房を左右に振り分け力を角するなどとは、実に興の醒めたる話なるが、各月中のこととかや、越後高田に於いて右の女相撲を興行せしに、奇を好む人情として、客観所狭きまでに押し掛け、力の強弱は後の手に廻して、容姿の醜美を評するもありしとか。しかるに同月二十八日、右女相撲の一人はる(二十二年)といえるは、突然その筋へ拘引されたり。今その理由を聞くに、同人は中蒲原郡村松町某の妻にて二人の小児さえ設けたる者なるに、先頃同町に於いて女相撲の興行ありし時、見物に出掛け、何が面白かりしにや右の仲間に加入し、千両幟(のぼ)りの反対と出掛け、相撲取りが男を捨て、江戸、長崎国々気取りにて前記の興行中なりしに、かねて村松分署より高田警察署へ取り押え方を照会に及び居りて、かくは拘引されたるなりと云う。[出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 明治ニュース事典 第Ⅲ巻, p.788]http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/new_page_4.htmもう破廉恥な行為がもろ。1847(弘化4).5.23叙従三位。正三位・非参議。吉田 良義[1837(天保8).3.9~1890(明治23).3月]良熈男。母家女房。1865(慶応元).12.23叙従三位。明治元年時、従三位・非参議(32才)。

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