2007年9月24日月曜日

百越の地南越王『晋書』




康八年九月、東夷七国が校尉のもとに来て服属した楚王司馬瑋と淮南王司馬允恵帝は先祖の事業を受け継ぐ虞夏は舜と禹。「四代」が誰を指すかは不明皇孫の聡明を恃みとし皇孫達のうち賈后(註160司馬衷の后。荒淫放恣と姦邪を以って知られる)の産んだ子ではない者が結局、王佑の策を用い、太子(註161)の同母弟の秦王司馬柬に関中を統轄させ、楚王司馬瑋と淮南王司馬允に要害の地の抑えに当たらせ(註162帝室一門を重用)、帝室を強化した王佑を再び北軍中候とし、禁兵を司った武帝の病臥が長引き、病が篤くなった。だが、建国の大業を輔弼してきた元勲達は、みな既に亡く、群臣は恐れ惑い、考えをめぐらしても何に従えばよいのか分からなかった。ちょうどこの時、武帝は小吏を派遣し、詔して汝南王司馬亮に政務を輔弼させ、さらに、朝廷の官吏のうちで名望があり年若い者数人にこれを補佐させようとしていた。だが、楊駿がこれを良しとせず、隠匿した。武帝はまた幾度も錯乱状態に陥った。楊后はその度に詔を出して楊駿に政務を輔弼させ、また、司馬亮の京師への進発を促した。武帝は取り巻きの者に汝南王はまだ来ないかと尋ねた。汝南王に会いたいと考えており、また、託すべきことがあったのである。だが、左右の者は、まだ到着しないと答えた。武帝はその後すぐに危篤に陥った。朝廷内の乱れは、まことにここから始まったのである。【百越の地南越王】南越列伝, 南越王趙佗をはじめとする、南越の伝記。 東越列伝, 越王句践を祖とする、ビン王無諸と東海王揺をはじめとした東越の興亡。広東でもっとも古い建築物の一つ。西漢南越王の宮殿として建てられた2000年以上前に寺院となる南宋禅・・・臨済宗・曹洞宗もここに端を発する南越王墓から大量の副葬品が出土していて貴重な資料になっています。 日本の鏡の大量埋納と同じ慣習があるのはここだけのようです2代目の文帝BC1000頃の山東半島には「箕族」BC195、燕から亡命していた衛満が策略をもって箕子朝鮮を奪取して衛氏朝鮮を建国。史記によれば燕は穢ワイ、貉バク、箕子朝鮮、真番と交易戦国時代の箕子朝鮮には大量の中国系戦争避難民が到来 三国志東夷伝に、秦、燕、斉、趙の戦の避難民数万が到来した箕子及親留在国者、因冒姓韓氏。準王海中、不興朝鮮相往来国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中にあって(朝鮮と)行き来した三国志東夷伝には「辰王不得自立為王」、辰王は自ら王となることができない「辰韓者、古之辰国也」ともある秦の滅亡、その王朝の一族が朝鮮半島へ亡命その集団が東夷伝で辰国と称されたが中国系民降臨者が黄河系か長江系東夷伝で辰韓を秦韓とも箕準王自身は日本側に定住はせずその王子が定住 。日本国王




0 件のコメント: