2007年9月24日月曜日
吉田神道とは本願は寺であった
吉田兼右の子吉田兼見(よしだ かねみ)兼和を兼見に改名吉田兼右の子。梵舜/ぼんしゅん吉田神道を学び、神竜院に住す。 神道の普及に努力し、秀吉に認められ、兄兼見と共に豊国社を創立し、神宮寺別当となる。 また、家康にも仕えたが、その死後、東照宮創建をめぐり、天海と対立し次第に力を失った。:『舜旧記』梵舜本太平記(ぼんしゅんぼんたいへいき) 太平記。吉田(神竜院)梵舜(1553-1632)偽書づくりの名人。清原宣賢の子、『兼右卿記』吉田兼右(1516~1573)が大内善隆(周防・山口藩)と結び神道の伝授にあたり、天文の末年(1554年)には求めに応じ周防に下り、北九州まで足を伸ばし、地方の諸神社にも勢力を伸ばし九州の島津・大友等の有力大名とも交わっています。「神代紀聞書・神道名目抄・神道相承抄・神道猿楽秘伝・広瀬社縁起」等神には無縁の関係ないのが多数ある。http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/new_page_41.htm由緒859年(貞観元年)に中納言藤原山蔭(やまかげ)が春日大社の分社として勧請したものです。吉田神道を創始した吉田兼倶が吉田神道の拠点として1484年に境内に末社斎場所大元宮を創建 この斎場所大元宮は、八角形の本殿に六角の後房を付けた極めて特異な形状の仏教となる。魂と四と寺に関する吉田神道は鎌倉中期・応仁の乱の頃に始まり、室町末期に吉田兼倶 (かねとも )が大成した神道です。伝書としては『神道大意』と『唯一神道妙法要集』があり、いずれも兼倶の述作です。「兼倶は神道を分類して本迹縁起・両部習合と元本宗源の三とし,元本宗源をもって正統とし吉田家に伝来せるものとしています。無始無終の霊的実在,一念未生の本を究めるのが神道,されば唯一法のみあり唯一の神道という所以です」としていて神道には関係していない。[吉田兼倶の教説とは、「各神社の由緒に基づく社伝神道、密教に基づく両部神道を否定し神宣として吉田家に伝わる元本宗源神道を宇宙の根本原理にかなった正当神道とした。陰謀がつのる吉田社の神主・吉田兼右の斡旋で将軍就任の前提となる従五位下・左馬頭に異例で叙任される義秋は義輝と親しかった上杉輝虎と畠山義綱ら北陸勢を軸として入京する計画を考えており、そのために、同年四月二十一日に武家伝奉を経ないで、吉田社の神主京都御所で十三代将軍・足利義輝が松永久秀と三好義継ら三好三人衆に襲撃され、殺される事件は、三好政権の思い通りにならず、室町幕府の復活にかける義輝が邪魔になったことで起こった
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