2007年9月24日月曜日

(鷹司)の名を使い売り系図作り

ここに上げるは威かにどうやらこのへんに 仁孝天皇正室藤原(鷹司) 祺子【やすこ】の(養子)孝明天皇が拘わる、偽系図編纂の実態である。藤原(鷹司) 祺子【やすこ】の後には継承したものがいない。仁孝天皇の贈皇后:藤原(鷹司) 繁子【つなこ】..1798~1823.<新皇嘉門院>父:関白 鷹司政煕母:豊岡 斐子(権中納言豊岡尚資の女)(兄弟)関白政通・(同母妹)新朔平門院祺子も居たが、こちらも後継者が途絶えている。孝明天皇母藤原(正親町) 雅子【なおこ】孝明帝の崩御お由良(お由羅)の方薩摩藩主・島津久光の生母。江戸の大工又は船宿の娘と言われる 杉浦日向子元を正せば江戸の大工の娘であった側室のお由羅が、久光を藩主にしようと斉彬派の武士たちを捕縛、殺害したのです。http://www.k2.dion.ne.jp/~bakumatu/bas15.htm斉彬の死後藩主を継承した舟宿の娘、お由羅の子久光は徹底的に西郷を嫌い、この時とばかりに奄美大島に流した。●大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室についてhttp://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4-1.html●公武合体とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。 文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。 将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。「非蔵人日記」には次のやうにある(書き下し文に改めた)。 …先年來有志の輩、誠忠報國の純忠を以て周旋致し候儀、叡感[天皇の思召]斜めなら ず[一方(ひとかた)でなく]候、之に依って猶(なほ)又言路[意見具陳の方途]を洞開し [新たに開き]、草莽微賤の言と雖も叡聞に達し[天皇のお耳に入れ]、忠告至當の論は 淪没壅塞(りんぼつようそく)せざる様[埋没して表に出ないことのないやう]との深重の思 召に候間[ので]、各韜[包み隠さず]忠言は學習院へ參上(参上)し、御用掛の人々へ揚 言[言上]すべく仰せ出され候間、亂雑[混乱]の儀これ無き様相心得、申し出され候べき 事。(『孝明天皇紀』第四巻)孝明帝の崩御については、毒殺説が広く流布されている顔には紫色の斑点が現れたと諸資料は語り、また「御九穴より御脱血」とも語る。西暦1867年1月30日、孝明天皇は、断末魔の苦しみの内に息を引き取られた。親子内親王(和宮、江戸14代将軍・徳川家茂室)仁孝天皇贈皇后:藤原(鷹司) 繁子【つなこ】..1798~1823.<新皇嘉門院>父:関白 鷹司政煕母:豊岡 斐子(権中納言豊岡尚資の女)(兄弟)関白政通・(同母妹)新朔平門院祺子1798(1才) 誕生〔2月〕1813(16才) 東宮・恵仁親王(仁孝天皇・14才)の妃となる1817(20才) 仁孝天皇即位、女御宣下(12月)1820(23才) 皇子(安仁親王)を生む、准三后1821(24才) 安仁親王没1823(26才) 薨去(死因:難産)〔4月3日〕、女院(新皇嘉門院)を(日)       (泉涌寺[後月輪陵]に葬られる)1824.. 皇后を追贈所生の皇子女1820~1821.. 安仁親王1823.. 皇女(翌日夭折)[皇太后]:藤原(鷹司) 祺子【やすこ】..1811~1847.<新朔平門院、名>父:関白 鷹司政煕母:豊岡 斐子(権中納言豊岡尚資の女)代父:関白 鷹司政通(兄)(義母・兄の正室)徳川清子(水戸藩主 斉昭の姉)・(同母姉)新皇嘉門院繁子1811(1才) 誕生〔2月25日〕1823(13才) 姉・仁孝天皇女御繁子没1824(14才) 仁孝天皇の女御に内定1825(15才) 仁孝天皇(25才)に入内、従三位、女御宣下1829(19才) 皇女を生む1830(20才) 准三后1831(21才) 皇女(女二宮)没1835(25才) 皇子煕宮(孝明天皇・5才)を養子とする(6月)........煕宮准后御所に移る(7月)1846(36才) 仁孝天皇(47才)没、孝明天皇即位1847(37才) 皇太后に冊立(3月)........女院(新朔平門院)となる、出家、同日崩御〔10月13日〕(泉涌寺[後月輪陵]に葬られる)所生の皇子女1829~1831.. 皇女≪女二宮≫(養子)孝明天皇[女院]:藤原(正親町) 雅子【なおこ】..1803~1856.<新待賢門院、号:権典侍・藤大納言(仁孝帝没後)>父:左大臣 正親町実光母:四辻 千栄子(権大納言四辻公享の女)1820(18才) 仁孝天皇(21才)の後宮に入る(2月)1821(19才) 典侍に任官1831(29才) 次男・煕宮(孝明天皇)を生む1835(33才) 皇子煕宮(孝明天皇・5才)儲君となり、准后女御祺子の養子となる1840(38才) 統仁親王(孝明天皇・10才)立太子1846(44才) 仁孝天皇(47才)没、孝明天皇即位1847(45才) 従三位に叙される1850(48才) 准三后、女院(新待賢門院)となる1856(54才) 崩御〔7月6日〕(泉涌寺[後月輪陵]に葬られる)所生の皇子女1825~1827.. 皇子≪鎔宮≫(←のりみや)1831~1866.. 統仁(孝明天皇;在位1846~1866)1833~1836.. 皇子≪幹宮≫(←もとみや)1837~1838.. 皇女≪恭宮≫(←ゆきみや)どうやらこのへんに 仁孝天皇正室藤原(鷹司) 祺子【やすこ】の(養子)孝明天皇和宮、江戸14代将軍・徳川家茂室)と後室家茂室『島津重豪』娘・茂姫(広大院)を11代将軍徳川家斉の御台所に送り込みその後が福岡藩主黒田斉溥が久光の公武合体の上京周旋の挙を止めようとしているのは和宮、江戸14代将軍・徳川家茂室にかかわりが出てきて,画策する久光の公武合体孝明天皇に歯止めをさせたとも考えられる。それが天王を守る立場である。ここに邪魔な斉彬を暗殺したのでありましょう。斉興の愛妾西郷は、斉彬を暗殺したのは久光ではないか?という疑いを持っていたので、忠義の父である島津久光、この久光が実質の薩摩藩を仕切っていたのであるが、その久光とはお互い犬猿の中。西郷は2回島流しにあっている。2回目は久光の命に従わなかったため沖永良部島に流された天皇と公家に対する認識いろんな書き込みがあるが真実ではないうわさもある。父:権大納言 橋本実久 仁孝天皇(40才)の後宮に入る(12月)http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/koumeitennnou1.htm

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