2007年9月24日月曜日

売り系図作りの吉田兼右  

●徳川系図家光編纂と天海親氏が徳阿弥という時宗の僧となって諸国をめぐるうち、三河国松平郷の土豪松平太郎佐衛門信重の娘婿となり、これが松平の初代に数えられるという。徳川系図が家康以後の創作であり、まったく信じることのできないものであることは、定説となっている。その仲にある戸田綱光父子の系図もこれに同じである。http://www.h3.dion.ne.jp/~samtoda/keifu01.htm戸田綱光父子の系図は一説にもともと他姓であったのを、 ...文明7年には戸田綱光、 戸田宗光 親子が尾張より 三河国 渥美郡 大津村に入ったのが始まりといいこの頃売り系図が作られていた頃。で正親町三条家では無い戸田。享禄二年松平清康は松平方についた戸田宣成、牧野成敏が入る松平清康は、織田信秀(尾張)との戦いの中、家臣によって討たれる。「守山崩れ」清康子の松平広忠(家康の父、10歳)が跡を継ぐが、力弱く、内紛により流浪の身となる。天文六年戸田宗光(康光)が、大崎にあった戸田宣成に吉田城を攻略させ、牧野成敏を追う。天文十五年今川義元、吉田城を攻略し、戸田宣成討死岡崎に帰った松平元康藤原北家系図正親町三条公氏 ー 実蔭ー公貫ー実躬ー公秀ー実敷ー公豊ー三条西公保ー実豊ーー公雅ー実雅ー公治ー実興ー戸田宗光ー今川氏に攻められ、戸田宗光(康光)、堯光の親子は、田原の城をまくらに討ち死にして、戸田氏の本家は断絶しています。ではそれ以後は?他系によるもの。松平信光(親氏の孫)・戸田宗光(康光)、とありここからが戸田祖の始まりか。ことに藤原正親町三条公氏系実興ー戸田宗光とあり又一方では文明7年には戸田綱光ー 戸田宗光 親子が尾張とあり入れ替わりの系図となっているのが見える。これが藤原のすり替えである。そこで一度松平系図を覗くと、親氏から始まる徳川は在原姓ともいわれる①徳川氏と血縁関係によって姓を改め松平としているもの②家康の母の傳通院夫人が久松俊勝に再嫁して出来た松平氏 紀氏系源氏の正統である三河の大名吉良氏に依頼し、その系図を買い受け、源姓の「徳川系図」を作り上げている吉良氏は三浦氏よりでずこの松平=徳川系図が家康以後の創作であり、まったく信じることのできないものであることは、定説となっている。従って家光により藤原に繋がる。家康はまず、従五位下・三河守に叙任される直前の永録九年頃、吉田兼右が見つけ出した徳川系図をもとに系図を整えている。 この時兼右が見つけ出した系図は徳川氏(源姓)のものではあるが、途中で藤原姓に改姓した奇妙な家のものだった吉田兼右は祖先から陰謀渦巻く歴史改竄などにあたり,改竄されたものがほとんどで,信用に値しないものである。 日本国の王

偽系図作りの吉田兼右作正親町三条家とは戸田綱光祖正親町三条家は一旦断絶したものを養子といわれる戸田綱光(通称は三郎、諱は実光とも伝わる。)妻は松平和泉入道信光に始まる。法律も信用も都合で変化する口約束と法律は同じ物体から運営されるものだから,真が備わっていない。約束は明日は変わるし法律も換ってしまうのが現状でそれは人間が画作するから,かわる。明治以後良く御覧なさい,一旦決めたものは最後まで守るのが信用となる。守らなかった過去の歴史を顧みれば,ずいぶん換っていることがわかる。法律も都合でつくられるので信じられないが,日本人は信じるのは日本人がすでに野生化しているという事。この野生化とは動物の生態に返ったという事なのです。本能が古代の信仰玉信仰になっている現象が現れていて,人間の強欲が強くなりわがままに,なっています。是を仏頼みという。●仁孝天皇(40才)の後宮正親町三条家からの養子といわれる戸田綱光(通称は三郎、諱は実光とも伝わる。)妻は松平和泉入道信光(徳川家康の曽祖父)の女。一説にもともと他姓であったのを、戸田氏鉄が戸田氏の宗家康長の婿となるに及んで姓を許されたという説もある。これは家康とは何等関係が無い。はっきりしていないのも偽系図が作られていたからであろう。戸田綱光は文明年間の人物であり間違いである。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝とお大の方の娘)を藩祖戸田康長(1562-1632)が娶ったため。康長と松姫には長男が居たが早世。康長には妾腹の次男忠光、三男が康直がおり、忠光(加賀守)が後継者であった。彼は二代将軍秀忠と三代将軍家光の両方の名をいただいているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の光重と正妻の子の女子が居た。ところが、忠光は父康長公よりも早く戸田家を継ぐことなく亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡をとる。しかし、康直にも跡継ぎがおらず、忠光の子である光重が跡をる。この光重の妹であり、忠光公の正妻(蜂須賀家政の四女)の長女であったのが二の丸殿。その後、戸田松平家は、公卿の羽林家の一つである今城家と何代にも渡り婚姻関係を結ぶ)淀、鳥羽などを経て、信州松本に行き明治維新を迎え子爵となる。大臣家である正親町三条家の支流といわれる。家紋の一つに連翹襷( れんぎょうだすき )を用いるが、これは正親町三条家の家紋。この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったのではないかと推測される。高家とは江戸時代の「高家職」という職制が始まる前までは貴族を意味していた。葵の家紋は忠光公の父康直公が徳川家康公の同腹(父違い)の妹を娶り、譜代として初めて松平を名乗ることを許されたために用いられる。ここにその正体が見えていて,松平は素浪人であり,それが家康の時になり母が始めて世に名を出すが離別したのは皆も知るところ。系図がやはり捏造されている。これでは天王の正統ではないのがわかろう。藤原(正親町) 雅子【なおこ】父:左大臣 正親町実光父:権大納言 橋本実久 仁孝天皇(40才)の後宮に入るhttp://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4-1.html三条公頼は山口の大内義隆の元に滞在中、 義隆家臣の陶晴賢の反乱に巻き込まれ、殺害されてしまった。三条公頼には息子がいなかったため、一時は三条家は断絶してしまった。三条家はすでに断絶していたのである。 後に入ったのが戸田綱光(通称は三郎、諱は実光とも伝わる。)妻は松平和泉入道信光に始まる。これは松平祖親氏系図と同じ

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